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文:ピーター・コンティ=ブラウン
1990年代とは何だったのか。一方には『フレンズ』『ザ・シンプソンズ』『サインフェルド』に象徴される皮肉なシニシズム、シアトルのグランジの苦悩、そしてスキャンダルに揺れたホワイトハウスがあった。他方では、急騰する株式市場、インターネット・ブーム、そして1920年代以来初めての持続的な連邦財政黒字があった。その矛盾を体現した人物は、カート・コバーンでもジェリー・サインフェルドでもビル・クリントンでもない。100歳で死去した連邦準備制度理事会(FRB)議長、アラン・グリーンスパンだった。

- 100歳で死去したグリーンスパンは、予測者というより政治家だった。FRBを政治の藪の中を巧みに導く一方で、本来関わるべきではない荒波の中に引きずり込んだ。
- 第一の教訓は勇気だ。1991年にジョージ・H・W・ブッシュ(父)が「金利は今すぐ下げるべきだ」と要求したとき、グリーンスパンは屈しなかった。利下げは緩やかに進められ、1992年の選挙年まで続いた。
- 第二は自制だ。2001年の減税と社会保障の民営化への支持は、FRBの威信を党派的な政策課題に貸し与え、彼自身とFRBの双方を傷つけた。
- ケビン・ウォーシュ氏は金融政策から政治を排除したいと語る。グリーンスパンの経歴が示す教訓は、議長はそれでも狭い範囲で政治を実践しなければならないということだ。
繁栄の遺産、そして規律を欠いた市場の遺産
グリーンスパンは、歴史家が解釈に何十年も費やすほど複雑な遺産を残した。彼は繁栄をもたらす一翼を担った。低インフレ、高成長、そして冷戦後の世界におけるアメリカの経済力である。一方で、FRBが救済してくれると踏んで賭けることを覚えた金融市場を規律づけるには、あまりに手を尽くさなかった。利益は私有化し、損失は社会化させることを許したのである。
その遺産はよく知られている。もう一つの遺産も同じくらい重要であり、彼の後に中央銀行を率いる者たちへの招待状であり、警告でもある。予測者として、中央銀行家として、筋金入りのリバタリアンとして以上に、グリーンスパンは政治家だった。FRBを政治の藪の中を導く術を極めた。一方で、本来関わるべきではない荒波の中にも引きずり込んだ。
教訓その一:大統領に立ち向かう勇気
1987年の就任後、グリーンスパンは前任者ポール・ボルカーの強みを土台にした。まもなく敵を作った。ロナルド・レーガンの後継候補だったジョージ・H・W・ブッシュ副大統領だ。1988年の選挙戦が熱を帯びるなか、グリーンスパン率いるFRBは過熱とインフレ再燃への恐れから利上げに踏み切った。ブッシュ氏は快く思わなかった。
ブッシュ氏は1988年に楽勝し、やがて史上最高の大統領支持率を記録した。しかし景気が減速すると、無敵と思われた大統領にかげりが見えた。1991年、第一次湾岸戦争の末期に人気が絶頂だったブッシュ氏は「金利は今すぐ下げるべきだ」と要求した。グリーンスパンは屈しなかった。FRBは利下げを実施したが、そのペースは緩やかで、1992年の選挙年まで続いた。ブッシュ氏は後に敗北の責任をFRBに帰した。おそらくその通りだったのだろう。
ビル・クリントンが大統領に就任したころ、グリーンスパンは政治的な主導権を握っていた。1995年にホワイトハウスの首席補佐官が金利が高いとFRBを公然と批判した際、クリントン政権の首席経済顧問ロバート・ルービン氏が同氏をたしなめ、新たな原則への道筋をつけた。政権内の何人もFRBを公然と批判することは二度とない、という原則だ。この教訓は、クリントン政権時代にルービン氏と最も緊密に連携した経済協力者の一人、すなわち毎週会談したアラン・グリーンスパン自身との対話の中で強化されたものだった。
グリーンスパンの後継者たちへの教訓は明確だ。FRB議長が取り組める最も重要な政治的課題は、独立した金融政策の権能を守ることである。FRBが常に正しいからではなく、大統領とその党派的な仲間たちが、自分たちにとって唯一重要な時間軸で成果をもたらす金融緩和に常に偏りがちだからだ。FRBの独立性が何かを意味するなら、それはその近視眼に抵抗することである。問われるのは、議長にそれを守るグリーンスパンのような勇気があるかどうかだ。
教訓その二:FRB議長の守備範囲は狭く保て
グリーンスパンが振るった権力には暗い側面もあった。彼はたびたび、金融政策とはほとんど関係のない論争に首を突っ込んだ。2001年にはジョージ・W・ブッシュ政権に加担して巨額の減税を推進した。その減税は国家債務を数兆ドル膨らませ、あらゆる財政規律への超党派の誓いを実質的に終わらせることになった。グリーンスパンは後に自らの熱意は誤りだったと結論づけたが、事態を変えるにはあまりに遅すぎた。若きブッシュ氏がアメリカの財政運命の転換を生んだとすれば、グリーンスパンはその助産師だった。
それで終わらなかった。第二次ブッシュ政権では、社会保障の民営化の取り組みを支持した。改革は、FRB入り前に多大な時間を費やし、現代の社会保障制度の礎を築いた委員会を率いた主題だった。そしてグリーンスパンの政策的直感は正しかった。制度の支払い能力の見通しは、当時も今も持続不可能な軌道にあった。
しかし、こうしたことは現職のFRB議長にとって本来問題にすべきことではなかったはずだ。党派的な政策課題に自らの威信を貸すことで、グリーンスパンは自身とFRBを傷つけた。こうした問いに対するFRB議長の唯一の適切な答えは単純だ。議会とホワイトハウスに属する事柄について、私が述べる意見はない、というものである。
グリーンスパンの記録がケビン・ウォーシュ氏に意味するもの
現在、FRBの舵を取るのはケビン・ウォーシュ氏だ。承認公聴会でのエリザベス・ウォーレン上院議員とのやり取りで、同氏は「金融政策から政治を排除し、政治から金融政策を排除したい」と主張した。立派だが、希望的観測にすぎない。
金融政策から政治を排除し、政治から金融政策を排除する。
ケビン・ウォーシュ氏・承認公聴会
中央銀行は、その存在意義と説明責任を与える政治システムから密閉された隔絶を享受できず、享受すべきでもない。問いは、FRBが政策から政治を取り除けるかどうかではない。FRBがどのような政治を実践すべきかである。
グリーンスパンは、成功と行き過ぎの両面において道筋を示している。FRB議長は、金融政策を短期的な党派戦略の手に委ねようとする圧力に直面して、制度を守る者でなければならない。ドナルド・トランプ大統領のFRBに対する攻撃は、その激しさにおいて異例だ。しかし金融緩和を求める欲求は、FRBと同い年ほどの古さを持つ大統領の本能である。次の大統領の癇癪を待つまでもなく、FRBの長が何をすべきかは明らかだ。FRBを守らなければならない。
しかしウォーシュ氏も、グリーンスパンと同様、筋金入りの党派的人物だ。グリーンスパンの遺産からの第二の教訓は、現議長が今こそそうした本能を捨て去るべく最善を尽くさなければならないということだ。自党やその政治家への称賛も、あれこれの党派的政策への論評もしないことだ。その守備範囲は狭い。これからの政治的課題は単純だ。外部の影響からFRBを守ることである。その成否が同氏の遺産を決定づける。残りはすべて脚注にすぎない。■
ピーター・コンティ=ブラウン氏は、ウォートン・スクールの1965年卒業生記念金融規制学准教授であり、『The Power and Independence of the Federal Reserve(FRBの権力と独立性)』および『The Federal Reserve: An American History(連邦準備制度:アメリカの歴史)』(近刊)の著者。
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